民主主義の再定義
v1の三つの欠陥を同時に解決するには、民主主義そのものの定義に立ち返る必要がある。
民主主義の根本姿勢 - 自律
民主主義はなぜ民主主義なのか。この問いに答えない限り、v2の設計は恣意的なものになる。
民主主義の根本姿勢は、自律である。神に頼らず、血統に頼らず、技術や能力に頼らず、自分たちの足で未知の未来と向き合い、自分たちで選び取り、その結果を自分たちで引き受ける。これが民主主義の根本にある姿勢である。
神権政治は神に頼る。結果がどうなっても神の意思として引き受ける必要はない。世襲制は血統に頼る。結果は血統の宿命として処理される。技術官僚制は専門家の能力に頼る。結果は専門家の判断として外部化される。民主主義はこれらの依存をすべて拒否した。自分たち以外の何者にも最終判断を委ねないという覚悟が、民主主義の出発点にある。
ここで重要な区別がある。頼ることと使うことは違う。自律は、神も血も技術も否定することではない。神の教えを参考にすることは自律と矛盾しない。血統が持つ知恵を活かすことも矛盾しない。専門家の知見を取り入れることも矛盾しない。それらを判断の材料として使うことは、賢い自律の一部である。自律が拒否するのは、最終判断と結果責任をそれらに委ねることである。使えるものは使う。ただし判断するのは自分たちであり、結果を引き受けるのも自分たちである。
民主主義の正統性の源泉
自律を根本姿勢とする以上、民主主義の正統性は結果責任を当事者として引き受けることに帰着する。神に頼らず自分たちで選ぶなら、失敗したら自分たちの失敗である。誰のせいにもできない場所で、自分たちの生として結果を引き受ける。この引き受けが民主主義の正統性の源泉である。
v1はこの原理を暗黙のうちに前提としていたが、制度設計には反映しなかった。v1の「一人一票」は、発言権を平等に分配するが、結果責任は平等に分配されない。若い有権者は長く結果を引き受け、高齢の有権者は短くしか引き受けない。この非対称性が、v1の時間軸の歪みの正体である。発言権と結果責任のミスマッチこそが、v1の根本的な設計欠陥である。
プロフェッショナルへの委任による分散統治
結果責任を正統性の源泉と捉え直すと、民主主義の定義も更新される。
民主主義とは、選挙で全てを決定する制度ではない。民主主義とは、結果責任を引き受ける者が、領域に応じた適切な委任を通じて意思決定に関わる分散統治である。
この定義の下では、選挙は委任の一形態に過ぎない。有権者が自らの判断で委任先を選べる領域では、選挙が有効な委任形態となる。しかし選挙が有効でない領域、例えば高度な専門性が必要な領域では、別の委任形態が採用される。各専門分野の内部で、その分野の結果責任を引き受ける者たちが代表を選ぶ。それぞれの領域に適した委任形態を選ぶこと、それが分散統治の本質である。
v1の根本的な誤謬は、この分散統治の原則を見失い、選挙による委任を唯一の正統な委任形態と見なしたことにある。この選挙一元化こそが、v1の三つの欠陥を生む原因である。
独裁との対比
民主主義の対義語は独裁である。独裁は権力を一点に集中させる。民主主義は権力を分散させる。その分散の手段が選挙だけである必要はない。複数の分野に、複数の委任形態を通じて、権力を適切に分散させること。そして各分野で、結果責任を引き受ける者がその分野の意思決定に関わること。それがv2の設計原理である。
衆議院と参議院 - 国民の二つの側面
v2では、この分散統治を二院制として実装する。衆議院と参議院は、別個の機能を分担する二つの機関ではない。同じ国民の二つの側面を制度的に表現する、右脳と左脳のような関係である。
国民は誰もが、二つの顔を持つ。一つは生活者としての顔である。自分の生を生き、その結果責任を個人として引き受ける。もう一つはプロフェッショナルとしての顔である。自分の職業領域で専門的な判断を下し、その結果責任を職業的存在として引き受ける。
ここで前提となる事実がある。純粋な素人という存在はありえない。仕事をしている者は誰でも、自分の仕事の領域のプロフェッショナルである。農家は農業のプロ、工員は製造のプロ、医師は医療のプロ、教師は教育のプロ、看護師は看護のプロ、主婦は家事と育児のプロ。誰もが何らかの領域で結果責任を引き受けながら生きている。v1の「一般有権者(素人)」と「専門家(プロ)」という二分法は虚構である。
v2の二院制は、この重層性を制度化する。衆議院は国民を生活者として代表する。参議院は国民をプロフェッショナルとして代表する。同じ国民が両方の場で代表される。右脳と左脳が同じ脳の異なる処理様式であるように、二院は同じ国民の異なる立場の発露である。