GDPの限界と共同体経済
GDPは、市場経済原理主義の思想を最も端的に数値化した指標である。何を価値と認め、何を価値と認めないか。この判定基準が、GDPの定義の中に埋め込まれている。
GDPの計測範囲
GDPは、貨幣交換された経済活動の総額を計測する。この定義から、以下の性質が導かれる。
- 市場で取引されたものだけが計上される
- 家庭内で行われた労働は計上されない
- 共同体内での相互扶助は計上されない
- 自然環境の再生産は計上されない
- 価値の長期的な継承は計上されない
同じ労働でも、誰がやるかで価値判定が変わる。他人の子供の世話は計上される。自分の子供の世話は計上されない。他人の親の介護は計上される。自分の親の介護は計上されない。他人の家の掃除は計上される。自分の家の掃除は計上されない。
これは労働の客観的な価値ではなく、貨幣交換の有無で価値を判定しているということである。価値判定の基準として、明らかに恣意的である。
見えなくなるもの
GDPが見落とすのは、共同体経済である。
共同体経済は、貨幣交換を介さずに共同体内部で行われる価値の創発と流通である。これは複数の階層で存在する。
家庭内経済。家事、育児、介護、看護、家計管理。家族が相互に提供し合う労働とケア。最も基礎的な共同体経済である。
社内経済。同僚同士の助け合い、知識の共有、若手への教育、後始末、相談、文化の継承。給与として計上されないが、組織を機能させている活動。
町内経済。近所付き合い、子供の見守り、高齢者への声掛け、祭りの準備、災害時の助け合い。地域を共同体として成立させる活動。
オンラインコミュニティ経済。OSSへの貢献、Q&Aサイトでの回答、Wikipediaの編集、互いのコードへのレビュー。貨幣交換なしに知的生産が行われている場。
これらはすべて、実質的な価値を創発している。子供が育つ、組織が機能する、地域が成立する、知が蓄積される。これらの価値創発なしに、社会は成立しない。しかしGDPには現れない。
共同体経済の論理
共同体経済は、市場経済とは異なる論理で動いている。
即時等価交換ではない。家庭で子供の世話をするのに、即時の対価は受け取らない。親が病気の時に子が看病するのは、何十年か後の「返済」かもしれない。時間軸が長い。
帳簿がない。誰がどれだけ貢献したかを正確に記録しない。記録すれば共同体が壊れる。母親が「今月の家事労働費を請求します」と言えば、家族は家族でなくなる。
貨幣で測れない。測ろうとすると本質が失われる。「いくらなら息子の代わりに介護してくれるか」という問いは、家族関係を破壊する。
信頼と互恵性で成立する。長期的な関係の中で、帳尻が合う。あるいは合わなくても受容される。
境界の内側でのみ機能する。よそ者には適用されない。同じ行為でも、家族に対してやるのと赤の他人に対してやるのでは、意味が違う。
これらはすべて、市場経済の論理の逆である。市場経済は即時等価交換、帳簿の存在、貨幣計測、契約による拘束、境界を越える普遍性で成立する。
共同体経済と市場経済は、異なる論理で動く二つの経済である。どちらかが本物で、どちらかが偽物、という関係ではない。両方が必要である。
GDP主義の帰結
GDPを社会の豊かさの指標として絶対視すると、以下の帰結が生じる。
共同体経済が解体してGDPが上がる構造。家庭内の育児が外部化されて保育園を使うと、GDPは上がる。同じ子供が世話されているだけで、価値創発の量は変わらない。むしろ家庭内の方が多いかもしれない。しかしGDPは「経済成長した」と記録する。
同じことが、介護の外部化、食事の外部化、娯楽の外部化、教育の外部化で起きている。これらはすべて、共同体経済の解体と引き換えに市場経済を膨張させる動きである。GDPはそれを「成長」と呼ぶ。
価値創発の場が失われる。共同体の内部でこそ、最も根本的な価値創発が起きている。子供の養育、世代間の継承、関係性の深化、信頼の形成。これらは市場では代替できない。市場サービスは、表面的な機能を肩代わりするだけで、関係性そのものを代替することはできない。共同体が解体すれば、価値創発の場そのものが失われる。
個人の孤立化。共同体経済が解体すると、個人は市場サービスに直接対面する。家族を通してではなく、地域を通してでもなく、個人として市場に向き合う。この構造は、個人を孤立させる。孤立した個人は、感情的なケアを市場で買うことになる(カウンセリング、オンラインサロン、各種サービス)。市場はさらに膨張し、共同体はさらに解体する。
言われていないこと
現代の経済政策の議論では、GDPの限界は時々指摘される。「GDPは完璧な指標ではない」「幸福度も考慮すべきだ」といった形で。
しかし、GDPが構造的に共同体経済を消去する指標であるという認識は、政策議論にほとんど現れない。指標を補正すればいい、という話ではない。指標そのものが、市場経済原理主義の思想を体現しており、共同体経済を可視化できない構造になっている。
経済政策は、可視化された経済(GDP)を最適化する方向で動く。見えない部分(共同体経済)は、最適化の対象にならない。むしろ、見える部分を拡大するために、見えない部分が削られていく。これが現代の経済政策の構造的な歪みである。
代替指標ではなく
この問題への対応は、「GDPに代わる新しい指標を作る」ことではない。幸福度指数、国民総幸福量、人間開発指数、これらの試みは存在するが、補助指標として扱われるだけで、政策決定の中心にならない。
必要なのは、経済の定義そのものを変えることである。経済は、貨幣交換の総量ではない。経済は、共同体における価値創発の総量である。市場経済はその一部に過ぎない。この認識を持った上で、市場経済と共同体経済の両方を視野に入れた政策を作る。
これは指標の話ではなく、思想の話である。思想が変われば、指標も自然に変わる。思想が変わらないまま指標だけ変えても、補助的な位置付けに留まる。経済v2は、思想レベルでの再設計を目指す。
次の章へ
では、共同体経済を回復させるには何が必要か。最も基礎的な共同体は家族である。家族を再定義し、家族を経済の基本単位に据えること。これが経済v2の中心的な設計である。次章では、家族の再定義を扱う。